あまり流行りものが好きじゃない。若いころはそれなりにミーハーだった。あれもこれも新しくてワクワクするものが大好きだった。いまもその傾向は少なからずあるが、『流行りもの』ではなく『自分だけのマイブーム』の波が時々寄せてくる。周りに流されないと決めているわたしもいる。
やらないリストの例をいくつか。
- 髪の毛はカラーをしない
- ネイルはしない
- テレビは見ない
- みんなが買うからは理由にしない
- わたしもそれにする!はしない
- 必要なら反対されても手に入れる
- 変な日本語を使わない
こんなところだろうか。
まず、髪のカラーリングは一度だけしたことがある。わたしはサラサラのストレーヘアが気に入っているのだが、しっかりとした質の黒髪である。背が高くて重い印象になると言われたことがあり、カラーをしてみることにした。これがもうどうしようもなく傷んでパサっとなってしまった。翌日に、もう2度とやらないと心に決めた。
次にネイル。ボトルを集めるが好きで、若いころから自分で塗ったりプロに綺麗にやってもらっていた。ゴテゴテするのは嫌いなので、シンプルに単色。会社のビジネススタイルが厳しかったこともあり、淡い色を気に入っていた。爪が薄くてすぐに割れてしまうのがコンプレックスであった。ピアノを習いはじめてからも止めることなく、先生には『爪がね〜滑るしね〜』と何度となく言われたが、気にせずつづけた、笑。少しだけピアノが上達したら、爪が邪魔になってのでやめた。そのあと、挙式のときに一度だけやった。
料理をするようになり、ネイルは特に抵抗がある。少しずつ削れて口の中に入るだろうと思っている。そこはわたしの変なこだわり。
テレビを見ない人が増えた。とてもうれしい。テレビのほとんどはバラエティである。これを見ないから、テレビが話題になると付いていけない。若いころはジレンマを感じることがあり、この人たちテレビの話しかないの?と尖っていたこともある、笑。おなじくテレビを見ない人に『会話に困ったらどうする?』なんて聞いたことまであった。3人とも『へーそうなんだ〜で流す!』という回答だった。
受け身になるテレビは、いまでも好きではない。見るけれど、スポーツやドキュメントなど好きなものだけ。1.5倍速でね。それより、好きな映画を何度も観るのが有意義だと思う。
それから、周りがやっているから…と真似をしてやることはしない。まぁ、団体行動をしないから、そういう機会は少ない。いただいたものがあまりにも美味しくて、うちでも食べたというものはあるが、おそろいだね!みたいな感覚のものは無い。レストランでも自分の食べたいものを選ぶ。お店のオススメであっても、自分の食べたいものにするしね。
最後に、反対されても手に入れるものもある。以前は欲しいと思ったら、翌日には買っていた。いまは欲しいものリストに入れておき、何日もながめる。いつのまにか、リストから削除するものも多い。
周りから色々と言われたが手に入れたものがある。グランドピアノ。絶対に手に入れると思っていた。わたしなりの計算で弾き出した答えである。理屈は説明できないけれどね…。練習をしていて明らかに音がちがい、フォルムの美しさにただただうっとり。それに、友人たちも喜んでくれる。こんなのを持っているとネタにもなる。いいことしかない。
こんな風に自分の考えをもっていたいと思ったのには、理由がある。ずっと忘れていた記憶だが、数年前に思い出した。それは、小学生の時の林間学校での出来事。夕食でおひつに入った米をよそって食べるときだった。ある子が『ムシがはいってる!』と言った。女子のテーブルはザワザワした。しかし、わたしはムシには見えなかった。神経質ではないので、取りのぞけばいいよねという考えだった。わたしの茶碗には入ってないし…。
けれど、わたしは茶碗を置いた。そこのテーブルに座る女子がみんな置いたからだ。それに立ち向かう勇気が無かった。あの残された米は…作ってくれた人がいるのに…。そんなことを考えて涙をこらえたことを覚えている。
あの林間学校から帰宅して、母の顔を見たら涙が出た。なんでかはわからなかったけれど、自分の行いに情けなくなったのかもしれない。この話は母にはしたことが無かったな。いまなら、何て言うかな。聞いてみたかった。
そんな小さな傷が、いまのわたしに根深く残っている。あのころから、自分の考えをしっかり持ちたいと思っていたのかもしれない。でも、かなり抑えてきた。高校生になり自立心の強い友人たちに囲まれて、こんな世界があったんだとホッとした。
ほろ苦い思い出…。きっと誰にでもあるよね。あのときすでに自分のアイデンティティが出来ていたんだね。
最後に、日本語について思うこと。SNSにより日本語がかなり崩れている。わたしは言語の専門家では無いが、明らかにおかしな言葉であふれているとわかる。過剰に『お』や『さま』、身内のことなのに『ちゃん』をつけたり…。関西の商人文化から来ているのかな?敬語もおかしなことになって、三重敬語になっているのでは?と思うほど。美しい日本語は残ってほしい。
わたしは他者に伝えるとき、夫と言う。よく耳にするダンナ、旦那はおかしいと考える。主人とも言いたくない。だって家の主はふたりだから。そういえば本をよく読む博識な方は、配偶者と言っていた。
凛とした姿がカッコいいと思う女性に、聞いてみたことがある。『だんなさん』と使いたくないのだけれど、友人の夫を何と呼びますか?と。『○○(苗字)さん』でいいんじゃない?わたしはそうしてるかな、と返ってきた。
ひとはひと。そう考えられるひとが好きだ。でも、自分との差を感じるには自分はどんな風でありたいかを知る必要がある。あの遠い記憶、違和感があった白米を前にしたわたしの気持ち。あれは大切にしていきたい。思い出せてよかった。
わたしの価値観を決定付けてくれた高校時代。自立心が高いその同級生も生き方に悩んでいた。この夏に共有ができて、この人と出会えて良かったと思えた時間だった。深い話ができる友人があること、大きな大きな財産である。
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